「チリ」

チリ

チリ共和国
República de Chile
チリの国旗 チリの国章
国旗 (国章)
国の標語 : Por la razón o la fuerza
(スペイン語:理性によって、または力によって)

国歌 : チリの国歌
チリの位置
公用語 スペイン語
首都 サンティアゴ・デ・チレ
最大の都市 サンティアゴ・デ・チレ
元首
大統領 ミシェル・バチェレ
首相 なし
面積
総計 756,950km²37位
水面積率 1.1%
人口
総計(2005年 16,136,137人(60位
人口密度 21人/km²
GDP(自国通貨表示)
合計(2005年 62兆2,679億チリ・ペソ
GDPMER
合計(2005年 1,015億ドル(46位
GDPPPP
合計(2004年 1,738億ドル(44位
1人当り 10,869ドル
独立 スペインより
1818年2月12日
通貨 チリ・ペソCLP
時間帯 UTC -4(DST: -3)
ccTLD cl
国際電話番号 56
註1: チリは、南極の1,250,000 km²の領土を主張している。

チリ共和国(チリきょうわこく)、通称チリ(スペイン語では「チレ」)は、南アメリカ南部に位置する共和制国家である。1818年スペインより独立した。東にアルゼンチン、北東にボリビア、北にペルーと隣接しており、西と南は太平洋に面している。首都はサンティアゴ・デ・チレ

アルゼンチンと共に南アメリカ最南端に位置し、国土の大部分がコーノ・スールの域内に収まる。太平洋上に浮かぶ フアン・フェルナンデス諸島や、サン・フェリクス島サン・アンブロシオ島サラ・イ・ゴメス島、及びポリネシアのパスクア島(イースター島)などの離島も領有しており、また、アルゼンチン、イギリスと同様にチリ領南極として知られる南極の1,250,000 km²の領有権を主張している。

目次

国名

1600年頃のラ・プラタ地方の地図だが、この地図にはChiliと表記されている

正式名称は、República de Chile(レプブリカ・デ・チレ)。通称、Chileチレ)。

公式の英語表記は、Republic of Chile(リパブリック・オブ・チリ)。通称、Chileチリ)。

日本語の表記は、チリ共和国。通称、チリ。かつては「チリー」と表記されていたこともあった[1]。漢字では、智利と表記される。

チレ(Chile)という言葉の語源には諸説あり、ケチュア語で「寒い」、アイマラ語で「雪」、マプーチェ語で「世界の果て」を意味しているなどの説がある。なお、植民地時代初期はスペイン語でもChiliと表記されていたこともあった。

歴史

詳細はチリの歴史を参照

前コロンビア期

ヨーロッパ人がこの地を訪れるまで、チリの中央部や南部にはマプーチェ族やその系統のピクンチェ族などが居住しており、また、ポリネシア系の住人が太平洋を東に渡ってチリに上陸していた可能性も指摘されている。

15世紀に入ると、クスコを拠点に拡大したケチュア族のタワンティンスーユ(インカ帝国)の皇帝トゥパク・インカ・ユパンキワイナ・カパックらの征服により北部はインカ帝国に組み込まれたが、インカ帝国はマプーチェ族を完全征服することは出来ず、南部はマプーチェ族が支配し続けることになった。

スペイン人による征服とアラウコ戦争

スペイン人に立ち向かったマプーチェ族の英雄ラウタロ

最初に現在のチリとなっている領域を訪れたヨーロッパ人は、ポルトガル人探検家フェルナン・デ・マガリャンイスだった。彼は1520年に、チリとアルゼンチンの最南部のマゼラン海峡を「発見」した。 1532年にインカ帝国の皇帝アタワルパがスペイン人のコンキスタドールフランシスコ・ピサロらによって処刑され、事実上崩壊すると、1535年にディエゴ・デ・アルマグロがペルー方面からチリに遠征した。この遠征は失敗したが、続いて1539年にはペドロ・デ・バルディビアがピサロの命により侵攻した。 バルディビアはかつてインカ帝国が支配していた地域の征服にはさしたる苦労もなしに成功し、1541年に中央部に辿りつき、首邑となるサンティアゴ・デ・チレを建設して植民地化を進めたが、しかし南部の植民地化には苦戦した。マプーチェ族のトキ(首長)ラウタロは激しく抵抗し、バルディビア自身も1552年に戦死した。

その後、スペイン人は南部植民地化を進めようと兵を送るが、カウポリカンといったマプーチェ族の戦士達の激しい抵抗により、アラウコ戦争が継続され、以降チリ植民地は300年間に渡ってビオビオ川を国境線にしてスペイン人とマプーチェ族の断続的な戦争状態が続くことになる。1541年に創設されたチリ総督領ペルー副王領に組み込まれ、1565年にコンセプシオンアウディエンシアが設立された。

植民地時代のチリでは海賊の襲撃や、マプーチェ族との断続的な戦いが続くが、山脈や砂漠により、周辺地域から遮られた孤島のような地形に囲まれたチリ総督領の主要産業はペルー向けの小麦の生産などだったが、これはチリの入植者に農業を厭わない堅実な気質を育み、チリは徐々に独自の経済圏としてのアイデンティティを確立していくことになる。

1776年にリオ・デ・ラ・プラタ副王領が成立すると、理論上ではチリ総督領が領有していたとされた、現在アルゼンチン領となっている部分も含めてのパタゴニア全土がラ・プラタ副王領の管轄下に入り、チリの国土が現在の「刀の鞘」のように細長くなった。

スペインからの独立

アルゼンチン、チリ、ペルーの解放者 ホセ・デ・サン=マルティン
ディエゴ・ポルターレス 保守派支配の下で1833年憲法を制定し、当時のチリをラテンアメリカでもまれな安定した国にした

16世紀以来チリはスペインの植民地であったが、ナポレオン戦争によるヨーロッパの混乱と、そこから派生した半島戦争により、ナポレオン・ボナパルトが兄のジョゼフ・ボナパルトスペイン王ホセ1世に据えるとインディアス植民地は偽王への忠誠を拒否し、チリでもクリオージョの間に独立運動の気運が高まった。1810年にはサンティアゴに自治政府が誕生し、国民議会を招集して奴隷の輸入禁止、奴隷の子の自由を保障する決議などを行った。

1813年に自治政府はペルー副王アバスカルの派遣した軍によって崩壊し、再び王党派の支配を受けるが、独立指導者 ベルナルド・オイギンスリオ・デ・ラ・プラタ連合州アルゼンチン)に亡命し、解放者ホセ・デ・サン=マルティンの率いるアンデス軍と共に1817年のチャカブコの戦いに勝利すると、サン=マルティンはチリ議会からチリ総督になることを要請されたが、これを拒否したため、1818年にオイギンスがチリの独立を宣言し、初代大統領となる。同年、連合軍がマイプーの戦いでスペイン軍を破ると、チリのスペインから独立が確定した。その後サン=マルティンはペルーに向かい、シモン・ボリーバルと共にペルーを解放することになる。

1818年から1823年までオイギンスは自由主義的改革を進めるが、まもなく保守主義者と自由主義者の対立が繰り広げられた。しかし、同時期のラテンアメリカの多くの国でなったような自由党と保守党の果てしない内戦には至らず、1830年のリルカイの戦いで保守派が勝利すると、以降保守派が指導権を握り続け、ディエゴ・ポルターレスが制定した1833年憲法により、保守支配の下で当時のパラグアイと共にチリは安定を続けた。この憲法は大統領権と中央集権的要素が強く、地方自治と議会の自立性は損なわれたものの、この「ポルターレス体制」の安定の時代にチリは国力を蓄えることになる。

1836年にボリビアアンドレス・デ・サンタ・クルス大統領がペルーを併合し、ペルー・ボリビア連合の建国を宣言すると、北方の大国の出現に脅威を感じたチリ政府は、亡命ペルー人や、アルゼンチンの指導者フアン・マヌエル・デ・ロサスと共にこの連合を攻撃し、1839年には連合を崩壊に追い込んだ。

1851年に保守党からマヌエル・モントが大統領に就任すると、電信鉄道などが整備され、折からのの生産増や、政治的安定も相まってチリは急速に成長する。また、この時期にヨーロッパ、特にドイツからのまとまった数の移民が導入された。1849年に自由党が結成されたことをきっかけに1860年代に入ると1861年から1891年まで自由主義者が政権を握り、外交面では1865年からのスペインによる南米再侵略を打ち破り、また、独立以来混乱を続けていたボリビアのマリアーノ・メルガレホ大統領から、ボリビア沿岸部の硝石鉱山の権利を購入した。

そして、1860年のオルリ・アントワーヌ・ド・トゥナンによるアラウカニア・パタゴニア王国の建国をきっかけに、1862年からアラウカニア制圧作戦が進み、19世紀の間に南部のマプーチェ族の居住地とパタゴニアが国家に組み入れられた。

太平洋戦争と民主化の進展

イキケの海戦(1879年)
ホセ・マヌエル・バルマセーダ

ボリビアによる、アントファガスタのチリ硝石企業への課税をきっかけに、1879年4月5日、チリはペルー・ボリビア両国に宣戦布告し、 太平洋戦争が勃発した。イギリスの支援を受けたチリはこの戦争に完全勝利し、1884年の講和条約によりボリビアからはアントファガスタを中心とするリトラル県を、ペルーからはタラパカアタカマを獲得した。しかし、この戦争以降両国との関係は悪化し、その影響は現在まで続いている。また、この戦争の最中の1882年にマプーチェ族が最後の大規模な組織的反乱を起こすが、この反乱が鎮圧されると以後マプーチェ族は国民国家としてのチリ社会の底辺層に組み込まれていく。

戦争後、1886年に大統領に就任したホセ・マヌエル・バルマセーダは、ペルー・ボリビアから獲得した鉱山資源を背景に民族主義政策と富国強兵政策を行うが、専制的大統領統治に対する議会や海軍の反乱による1891年のチリ内戦にて議会軍に敗れて失脚し、自殺すると、以降チリでは議会主義が確立され、「強い議会、弱い大統領」の時代が1920年代まで続くことになる。

議会共和制から百日社会主義共和国まで

議会共和制期は不安定ながらも硝石、銅の輸出増を背景に鉱山寡頭支配層が政権を握り続けたが、第一次世界大戦後に硝石価格が下落すると保守支配に抵抗した「国民連合」のアルトゥーロ・アレサンドリが1920年の大統領選挙で勝利した。第一次アレサンドリ政権は議会の過半数を占める保守派の抵抗により、改革に失敗した末に1924年の軍保守派によるクーデターで失脚したが、1925年の軍改革派によるクーデターにより返り咲き、再び政権に就いた。第二次アレサンドリ政権は1925年憲法を制定して大統領権力を強め、ここに議会共和政期は終焉した。

1927年に急進党から就任したイバーニェス政権は道路、鉄道、港湾、水利などの公共事業と鉱業を拡大したが、1929年の世界恐慌で大打撃を受けると政府財政は破綻し、1931年に崩壊した。混乱の中、1932年の極短期間に「社会主義共和国」が成立するが、1932年には自由党から保守派の第三次アレサンドリ政権が誕生することで混乱に終止符を打った。

人民戦線と人民連合

1938年の選挙によりアレサンドリは敗れ、人民戦線からペドロ・アギーレが大統領に就任した。1939年に生産振興公社が設立されたが、1941年にアギーレは辞任した。

1946年に急進党からガブリエル・ゴンサレス・ビデラ政権が成立すると、アメリカ合衆国の圧力の下にソ連との断交が行われ、チリ共産党が連立から離脱すると、人民戦線は終焉した。1948年に「民主主義防衛法」が成立すると、以降1958年まで共産党は非合法化された。

1952年にポプリスモ政策を掲げた第二次イバーニェス政権が成立すると、選挙法の改正などにより秘密選挙が保障されるようになり、1958年には「民主主義防衛法」も廃止された。1958年にアルトゥーロ・アレサンドリの息子、ホルヘ・アレサンドリが大統領に就任したが、アレサンドリはブルジョワ層に傾いた政策を採り、「進歩のための同盟」の要請により行われた農地改革も殆ど実効性の無いものに止まった。

チリ革命とピノチェト時代

1964年にキリスト教民主党のエドゥアルド・フレイが人民行動戦線のサルバドール・アジェンデを破って大統領に就任した。「自由の中の革命」を唱えたフレイは「銅山のチリ化」や、農地改革を行った。「銅山のチリ化」、農地改革は共に不徹底なものに終わったが、政治における民衆動員は、1970年の大統領選挙における階級対立の図式を整えることとなった。

1970年の大統領選挙により、人民連合アジェンデ大統領を首班とする社会主義政権が誕生した。これは世界初の民主的選挙によって成立した社会主義政権であった。アジェンデは帝国主義による従属からの独立と、自主外交を掲げ、第三世界との外交関係の多様化、革命以来断絶していたキューバとの国交回復、同時期にペルー革命を進めていたペルーのベラスコ政権との友好関係確立などにはじまり、鉱山や外国企業の国有化、農地改革による封建的大土地所有制の解体などの特筆すべき改革を行ったが、 しかし、ポプリスモ的な経済政策は外貨を使い果たしてハイパーインフレを招き、また、西半球に第二のキューバが生まれることを恐れていたアメリカ合衆国CIAを使って右翼にスト、デモを引き起こさせるなどの工作をすると、チリ経済は大混乱に陥り、物資不足から政権への信頼が揺らぐようになった。さらに、極左派はアジェンデを見限って工場の占拠などの実力行使に出るようになる。

こうした社会的混乱の中で1973年9月11日アメリカ合衆国の後援を受けたアウグスト・ピノチェト将軍らの軍事評議会がクーデターを起こしてモネダ宮殿を攻撃すると、降伏を拒否したアジェンデは死亡し、1974年にピノチェトは自らを首班とする軍事独裁体制を敷いた。

このピノチェト軍政の治安維持は苛烈を極め、コンドル作戦汚い戦争)により、人民連合派をはじめとする多くの反体制派の市民が弾圧され後の政府公式発表によれば約3,000人、人権団体の調査によれば約30,000人のチリ人が殺害され、数十万人が各地に建設された強制収容所に送られ、国民の1/10に当たる100万人が国外亡命し、失業率22%、さらには国民の1/4のGNPが全くなくなるという異常事態を招きながらも、軍事政権はミルトン・フリードマンらのシカゴ学派に基づく新自由主義経済政策を「教科書通り」に導入し、工業の崩壊と失業の増加を背景にして経済全体を拡大し、「チリの奇跡」と呼ばれる経済成長を実現した。また、インフレ率は高位で推移していたもの、同時期にコロンビアベネスエラを除く南米全体を襲っていたハイパーインフレの危機も乗り切った。

しかし、アルゼンチン(1982年)や、ウルグアイ(1985年)、ブラジル(1985年)と周辺国が民主化する中で、一向に権力から離れず人権侵害を行うピノチェト軍事政権は国際的な批判を呼び、1988年のピノチェト信認選挙で敗北すると、1989年12月に行われた選挙で、保守で反ピノチェト派の民主主義を求める政党連合=キリスト教民主党パトリシオ・エイルウィンが僅差でピノチェト派の候補に勝利したことにより、1990年、チリは17年ぶりに民主的な文民政権に民政移管することになった。

民政移管以降

ミシェル・バチェレ

民政移管後、ピノチェト将軍を始めとする、軍政期に人権侵害に携わった軍人の処遇などの複雑な問題を抱えながら新政権はスタートし、結局ピノチェトは陸軍最高司令官として留任することになった。

1990年に就任したエイルウィンの政策は基本的には軍政期からの新自由主義を継承するものであったが、市場原理主義の修正を図り、軍政期に拡大した所得格差や貧困問題解決への取り組みも進んだ。

1994年には再びキリスト教民主党からエドゥアルド・フレイが大統領に就任した。フレイ時代の1998年2月にピノチェト陸軍総司令官が退役したが、ピノチェトには終身上院議員の議席が確保された。しかし、同年10月、軍政期に在チリスペイン人へ人権侵害を行ったことを理由に、スペインの要請によりイギリスに滞在していたピノチェトは逮捕され、外交問題となった。

2000年にはコンセルタシオン・デモクラシア=チリ社会党からアジェンデ以来二人目の大統領としてリカルド・ラゴスが大統領に就任し、チリ経済の成長が進んだ。1990年から2000年までのGDP成長率は平均約6.6%であり、軍政期(1973年から1990年)の平均の3.70%を上回った。

2006年には再びコンセルタシオン・デモクラシア=チリ社会党から、同国初の女性大統領、ミシェル・バチェレが就任した。

チリ最高裁判所は、2006年8月18日、公金横領容疑でピノチェト元大統領の免責特権剥奪を決定した。ピノチェトが家族や側近名義で米リッグス銀行など複数の銀行に合計125以上の口座を保有し、約2700万ドルの不正資金を隠匿していたとされる疑惑による。

政治

詳細はチリの政治を参照

2004年現在のチリ憲法は、アウグスト・ピノチェトを最高権力者とする軍政下に制定された1980年憲法である。特徴としては、大統領の権力が強められ、また国政への軍の最高司令官の参加が制度化された。しかし、1988年のピノチェト大統領の信任を問う国民投票に敗北した後、憲法に対して大統領の権力を弱め、軍部の発言力を抑えるような修正がなされた。憲法の民主的な改正に関する議論は現在も継続されている。

政治制度は、三権分立を旨とする議会制民主主義である。行政は大統領を長とする。大統領は6年任期で選挙により選ばれる。2期連続で就任することはできない。内閣の閣僚は大統領が任命する。2010年現在の大統領は、2006年1月15日に就任した社会党ミシェル・バチェレ。バチェレはチリ史上初の女性大統領である。

司法の最高機関は最高裁判所である。憲法に関する判断は、憲法裁判所が行い、憲法に反すると考えられた法律を差し止めることができる。

立法は、二院制である。上院は38名が一般投票により選出され、任期は8年、その他に国家安全保障委員会や司法機関、共和国大統領、前大統領などが11名を任命する。下院は120議席で、任期は4年。法案が採択されるには、両院および拒否権を持つ共和国大統領の承認を得なければならない。また両者ともに法案を提議することができるが、これを施行する権限は大統領にしかない点が問題とされている。

チリにも公権力の腐敗・汚職がないわけではないが、それは恒常的なものではなく、世界の「透明度」の高い国の上位30ヶ国以内に過去10年間連続してランク付けされているように、むしろラテンアメリカでは最も腐敗しておらず、比較的しっかりした法治国家だと認識されている。

国際関係

詳細はチリの国際関係を参照

民政移管した1990年以来、チリは国際的孤立から復活した。2007年からチリは他の4カ国と共にOECDの公式加盟国になることを打診している。

軍政期の1983年に、長年敵対と緊張関係の続いており、何度も戦争直前にまで陥った隣国アルゼンチンが、ラウル・アルフォンシン政権の下でチリとの歴史的な和解を進めると、パタゴニアを巡ってのチリの領土問題は解決した。また、太平洋以来続いたペルーとの緊張も収まりつつある。しかし、太平洋戦争で併合したアントファガスタを返還するように求めるボリビアとの緊張は未だに続いている。

地方行政区分

詳細はチリの地方行政区分を参照

チリは、州監督官(Intendente)を長とする13の州(Region)に分けられる。州はさらに幾つかの県(Provincia)に分割され、それぞれに県知事(Gobernador provincial)が置かれる。県はさらに市町村(Comunas)に分けられ、市(町、村)長がいる。監督官と知事は大統領により任命され、市(町、村)長は一般投票により選ばれる。

各州は名前とローマ数字により識別される。ローマ数字は北から南の順に割り当てられている。一般的には州名よりローマ数字の方が用いられている。唯一の例外は首都サンティアゴが位置している州で、首都州(Región Metropolitana)を意味するRM二文字で表されている。

地理

詳細はチリの地理を参照

パリナコータ火山

気候は幅広く、太平洋上に浮かぶラパ・ヌイ島(パスクア島、イースター島)の亜熱帯から、国土の北三分の一を占め、世界で最も乾燥した砂漠とされるアタカマ砂漠、中央部の肥沃な渓谷地域、そして元々は森林に覆われていた、湿度は高いが寒い南部、ツンドラ気候が広がる最南部のパタゴニア地方に大きく分けられる。渓谷地域は地中海性気候であり、チリの主要輸出品目の一つであるブドウなどの果物の栽培や、最近輸出量が増えてきたワインの生産に適している。

南緯40度以南はパタゴニアと呼ばれ、沿海部は典型的なフィヨルド地形が形成されている。

チリの対蹠地は北・中部が中華人民共和国、南部はモンゴル国、最南部はロシアシベリアである。

気候

チリは南北に大変長細い国であるため、北の方から順に砂漠気候ステップ気候地中海性気候西岸海洋性気候ツンドラ気候と気候が違っている。

時間帯

チリ本土ではUTC-4サマータイム実施時はUTC-3)だが、パスクア島ではUTC-6(サマータイム実施時はUTC-5)となる。

軍事

詳細はチリ軍を参照

チリ海軍フリゲートアルミランテ・ブランコ・エンカラダ (FF-15)

チリの大統領は軍隊の指揮権を有し、軍は国防相と大統領の統制を受けている。また、チリでは徴兵制が実施され、国民は二年間の兵役の義務を有している。陸海空三軍の他に憲兵カラビネーロス)が存在し、規模は30,000人ほどである。また、チリはブラジルに続いて南アメリカで二番目に大きな軍事予算を組んでいる。

伝統的にチリの軍隊は、「軍は憲法の番人である」として、他のラテンアメリカ諸国よりは政治に介入する頻度は比較的大きくなかったが、この原則は1973年のピノチェト将軍らによるチリ・クーデターにより崩された。その後軍政期に軍はコンドル作戦や、「汚い戦争」などを遂行し、自国民や、近隣諸国の反体制派市民の拷問、殺害に携わったが、1990年の民政移管後は、それなりの規模と発言力を保ちながら国民との和解が進められた。

陸軍

チリ陸軍は兵員45,000人を有し、サンティアゴに司令部がある。7つの軍管区に分けられ、ランカグアに飛行旅団が、コリナに特殊部隊の司令部がある。チリ陸軍はラテンアメリカでも最も整備され、専門的かつ技術革新の進んだ軍隊の一つである。

海軍

チリ海軍海兵隊2,300人を含む兵員23,000人を有している。艦隊の母港はバルパライソにある。

空軍

チリ空軍は兵員12,500人を有し、それぞれイキケ、アントファガスタ、サンティアゴ、プエルト・モントプンタ・アレーナスに五つの飛行旅団を置いている。空軍は南極キング・ジョージ島の基地でも活動している。2006年にF-16が14機、2007年にも14機導入された。 なお空軍は、軍政期は警察とともに反軍政派だった。

経済

詳細はチリの経済を参照

アタカマ砂漠の入り口サン・ペドロ・デ・アタカマ
ラパ・ヌイ島のモアイ
トーレス・デル・パイネ
パイネ国立公園

アジア太平洋経済協力(APEC)に加盟しており、メルコスール準加盟国であるゆえに南米共同体にも加盟している。

経済はほとんど輸出により成り立っている。輸出品目の第二位は農業関連製品で、第一位は以前より世界一の生産量を誇るである。1970年代初頭は輸出品の70%を銅が占めていたが、現在は40%とその重要度は低下している。最近では、各地で産出される良質なワインサーモン木材パルプの輸出が始められた。また先進国ほどではないが、ラテンアメリカで最も工業化された国の一つであり、域内ではアルゼンチン、ブラジルメキシコとともに中進国であり、2007年からOECD加盟に向けて交渉が進んでいる。

チリ北部の主要産業は鉱業であるが、南部には大規模な農業酪農がある。バルパライソといった主要港のある中央部にはサービス業工業が集中している。チリのサービス業部門は大きく、世界で最も自由化され先端を行く通信インフラが整っている。 1990年代のにわか景気では、毎年7~12%の経済成長を記録したが、1997年アジア通貨危機以降は、年3%にまで落ち着いた。近年、EUアメリカカナダメキシコ韓国などと自由貿易協定を結び、さらにニュージーランドシンガポールとも同様な協定を結ぶ交渉が進められている。

一次産業

農業については、果樹類の生産が特筆される。19世紀からワインの原材料としてぶどうが広く生産されている。1970年代には過剰生産とワインの品質低下がたたって、一時生産量が低迷したが、ワインの品質改良などの地道な努力が功を奏し、1990年代以降は再び生産量を増やしている。

漁業については、東太平洋がアンチョビなどの好漁場であり、古くから活発に漁業が営まれてきた。気候地形の類似点から、北半球サケ類の移植が進められたが、自然放流により再生産を図る計画は失敗。しかし、代わりに始まったサケ類の養殖事業は大成功を収め、2005年には世界のサケ類の養殖生産高の1/3、約60万トンを誇る規模(世界第2位)となっている。

林業については、国土の2割が森林となっており木材生産が盛んに行われてきたが、1980年代以降、アメリカ合衆国日本の業者が進出し、パルプ用の木材チップの生産を飛躍的に高めた。南部のパタゴニア地方を中心とした原生林での生産が有望視されているが、無秩序に近い環境破壊を訴える自然保護団体も存在し、先住民マプーチェ族をはじめとする現地の住民も無軌道な乱伐に反対している。

鉱業については、地下資源、特に金属鉱物資源に恵まれている。2003年時点で、の採掘量は世界一であり、490万トンに達する。これは世界シェアの36.0%に相当する。は1250トンであり、世界第6位、シェア6.7%である。金の世界シェアも1.5%である。このほか、亜鉛を産出する。

金属以外の無機鉱物資源では、硫黄、塩、カリ塩、リン鉱石が有望であり、リン鉱石以外は世界シェア1%を上回る。有機鉱物資源も見られるが、規模は小さい。例えば、石炭の産出量は43万トンに留まる。

観光

近年観光業も成長を続けている。南部の森林地帯の荒々しい美しさ、北部のアタカマ砂漠の広漠とした風景、5月から9月にかけてのアンデス山脈スキーシーズンが観光客を惹きつけている。また、パタゴニアや、モアイ等の独自の観光資源を持つラパ・ヌイも観光地としての人気がある。その他にはビーニャ・デル・マルなどのビーチ・リゾートも存在するが、寒流であるペルー海流(フンボルト海流)の影響のため、チリの海は海水浴には適していない。

国民

詳細はチリの国民を参照

1835年から2050 年までのチリの人口グラフ(INE).
首都サンティアゴの景観
バルパライソの住宅街
マプーチェ族のロンコ

チリの人口は約1,600万人程で、1990年代から出生率の低下と共に人口増加率は低くなっている。2050年までには人口2,020万人に達すると見積もられている。 国民の85%が都市部に居住し、内40パーセントが大サンティアゴ都市圏に居住している。

チリの国民は、大部分がヨーロッパ系の白人もしくはメスティーソであり、人口の30%が純粋な白人であり、65%が白人系メスティーソとなっている。その他インディヘナとしては、パスクア島(イースター島)にはポリネシア系の、北部のアンデス山岳地帯にはケチュア族やアイマラ族など、南部ビオビオ川以南の森林地帯にはマプーチェ族が、その他にはピクンチェ族、ウイリンチェ族、アタカメーニョ族、ディアグイタ族、ペウエンチェ族などが、クリストバル・コロンの到来以前より居住しており、こうしたインディヘナを合わせると全人口の5%ほどになる。また、極めて少数であるが、植民地時代に連れて来られた黒人奴隷の子孫としてアフリカ系チリ人が存在するが、チリの黒人は人口の1%に満たない。

ヨーロッパからの移住は19世紀に加速した。特に南部のマプーチェ族の土地がアラウカニア制圧作戦により国家に併合されると、隣国のアルゼンチンやブラジル程の規模ではないが、スペインやクロアチアイタリアドイツパレスチナなどから移民が導入され、東ヨーロッパアイルランドからも少数が移住した。 日本からの集団移民は行われておらず、移住したボリビアなどから再移住した日系の移民が極少数存在するのみである。

人口

独立直後の1830年にようやく100万人を越えたチリの人口は、1960年のセンサスでは7,374,115人、1970年のセンサスでは8,884,768人、1983年年央推計では約1,168万人となった。

言語

言語はスペイン語のみが公用語で、日常生活でも広く使われている。その他にはインディヘナによってマプーチェ語や、ケチュア語アイマラ語、ラパ・ヌイ語、ウイリンチェ語などが話されている。

宗教

チリは伝統的にローマ・カトリックの国だったが、現在は国民の70%程となっており、福音派、またはプロテスタントが15%、エホバの証人が1%、末日聖徒イエス・キリスト教会が0.9%、ユダヤ教が0.1%、その他が4.4%、無宗教が8.3%、ムスリム東方正教はそれぞれ0.1%以下である(2002年のセンサスによる)。

教育

詳細はチリの教育を参照

1842年にチリ国立大学が設立された。 教育水準は高い。[要出典]

文化

詳細はチリの文化を参照

チリの文化はスペイン人による征服の前はインカ帝国とマプーチェ族のよるものが主流だったが、スペインによる征服後はスペイン人の文化的影響を強く受け、19世紀の独立後にはイギリス、フランスをはじめとするヨーロッパ諸国の影響を受けた。

食文化

詳細はチリ料理を参照

長い海岸線を有するため大海産国であることもあり、チリの料理は魚介類をふんだんに使う。 北部のかつてペルー領だった地域では、セビッチェが食べられており、南部ではアルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイブラジル南部などと同様にマテ茶を飲む習慣がある。

文学

詳細はチリ文学を参照

チリはガブリエラ・ミストラルパブロ・ネルーダという二人のノーベル文学賞詩人を輩出している。ミストラルは1945年に、ネルーダは1971年にそれぞれノーベル賞を受賞した。

小説の分野で代表的な人物はホセ・ドノソロベルト・ボラーニョイサベル・アジェンデなど。

音楽

詳細はチリ音楽を参照

チリのフォルクローレにおいてはクエッカと呼ばれるリズムが中央部で発達し、その他に北部のケチュア族、アイマラ族にはワイニョなどが、南部のマプーチェ族や、パスクア島のポリネシア系住民にも独自のフォルクローレがある。

1960年代には政治と強く結びついたフォルクローレ、ヌエバ・カンシオンが流行した。ビオレータ・パラビクトル・ハラインティ・イリマニキラパジュンなどが活躍していたが、1973年のクーデター後に軍事政権によって音楽家が殺害、拷問、追放されるとヌエバ・カンシオンは衰退することになった。

ポピュラー音楽においては、ロックは60年代に中産階級によって始められ、軍政期を通してインカ・ロックなどの形態で独自の発達を辿ることになった。その後80年代に軍事政権の言論弾圧が一時期弱まると、ロックはフォルクローレよりも盛んになり、チリ・ロックメキシコなどのラテンアメリカ市場でも成功するミュージシャンを生み出している。代表的なミュージシャンとしてはロス・ジョッカーズロス・トレスロス・ブンケルスラ・レイクダイなど。

世界遺産

チリ国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が5件ある。詳細は、チリの世界遺産を参照。

祝祭日

日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月1日 新年(元旦) Año Nuevo
3月4月 聖金曜日 Viernes Santo 移動祝日、復活祭前の金曜日
3月4月 聖土曜日 Sábado Santo 移動祝日、復活祭前の土曜日
3月4月 復活祭 Pascua de Resurrección 移動祝日
5月1日 労働者の日 Día del Trabajador
5月21日 海軍記念日 Combate Naval de Iquique
6月 聖体の祭日 Corpus Christi 移動祝日
6月29日 教皇ヨハネ・パウロ2世表敬記念日 San Pedro y San Pablo
8月15日 聖母被昇天 Asunción de la Virgen
9月18日 独立記念日 Fiestas Patrias
9月19日 陸軍記念日 Día de las Glorias del Ejército
10月12日 アメリカ発見の日(コロンの日) Descubrimiento de América
11月1日 諸聖人の日 Día de todos los Santos
12月8日 無原罪の聖母の祭日 Inmaculada Concepción
12月25日 クリスマス Navidad, Pascua

スポーツ

詳細はチリのスポーツを参照

チリのスポーツにおいても、やはり他のラテンアメリカ諸国と同じようにサッカーが大変盛んである。主なプロクラブとしては、コロコロコブレロアウニオン・エスパニョーラなど。

テニスも盛んであり、2004年のアテネオリンピックではチリのオリンピック史上初となる金メダルをテニスの男子シングルスと男子ダブルスで獲得し、首都のサンティアゴをはじめチリ国内では喜びのあまり異様なほどの盛り上がりを見せた(ニコラス・マスーフェルナンド・ゴンザレスの項目を参照)。

国の象徴

コピウエの花

チリの紋章には、国の動物であるコンドル(Vultur gryphus、山岳地帯に棲む大型の鳥)とアンデスジカ(Hippocamelus bisulcus、絶滅が危惧されている尾部の白い鹿)が描かれている。これらは国の標語である「理性によって、または力によって」とも関連がある。

国花は、コピウエで、南部の森林地帯に自生している。

関連項目

脚注


文献目録

インターネット

参考文献

  • 中川文雄、松下洋、遅野井茂男『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史II』山川出版社、1985年
  • 増田義郎(編)『新版世界各国史26 ラテンアメリカ史II』山川出版社、2000年 (ISBN 4-463-41560-7
  • 下中彌三郎(編)『世界文化地理体系24 ラテンアメリカ』平凡社、1954年
  • 福井英一郎(編)『世界地理15 ラテンアメリカII』朝倉書店、1978年 (ISBN 4-254-16545-5 C3325)
  • P.E.ジェームズ(著)、山本正三、菅野峰明(訳)『ラテンアメリカII』二宮書店、1979年
  • 野沢敬(編)『朝日百科 世界の地理12 ラテンアメリカ』朝日新聞社、1986年(ISBN 4-02-380006-6 C6325)
  • 後藤政子『新現代のラテンアメリカ』 時事通信社、1993年(ISBN 4788793083
  • 中川文雄・三田千代子 (編)『4ラテンアメリカ人と社会』新評論、1995年(ISBN 4-7948-0272-2
  • エドゥアルド・ガレアーノ(著)、大久保 光夫(訳)『収奪された大地 ラテンアメリカ500年』新評論、1986年

外部リンク

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