「宋 (王朝)」

宋 (王朝)

(そう、960年 - 1279年)は、中国王朝の一つ。趙匡胤五代最後の後周から禅譲を受けて建国した。国号はであるが、春秋時代南北朝時代などと区別するため、帝室の姓から趙宋とも呼ばれる。通常は、華北を奪われ南遷した1127年以前を北宋、以後を南宋と呼び分けている。北宋、南宋もともに、宋、宋朝である。首都は開封、南遷後の実質上の首都は臨安により滅ぼされた。世界で最初に紙幣を発行した政権であり、常備海軍を設置した最初の中国の王朝である。詳細は、北宋および南宋を参照のこと。

この頃、唐代までに大きく発展したなどの農機具を背景とし、占城稲という安定性のある早稲が導入され、米と麦の二毛作が拡大した。このような新しい農業により北宋期の人口は約1億人近くになったと推定されている。

宋朝には芸術思想及び各種実用技術の発達が見られ、文化的に豊かな期間であった。製紙印刷技術の向上と市民経済の勃興により、それまで一部の官僚貴族に独占されていた文学思想などが市民の間にも行われるようになった。

目次

歴史

北宋

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後周の殿前都点検(近衛軍長官)であった趙匡胤が後周最後の皇帝から禅譲を受けて建国した。趙匡胤は中国の分裂状態の終止を目指すが、志半ばにて病死。弟の趙匡義(太宗・趙光義)が後を継ぎ、兄の事業を受け継いで中国の統一を果たし、科挙制度の充実を図った。科挙制度は太宗の子真宗の代で完成されたといわれる。科挙制度の確立は皇帝独裁権の確立をもたらしたが、同時に過度の文官優遇により軍事力の衰退をもたらした。

1004年、北方のが南下したが、真宗は遼に対して毎年財貨を送ることで和睦した(澶淵の盟)。また遼の侵攻と同時に西のタングート族は西夏を名乗って宋に反旗を翻していたが、こちらにも1044年、財貨を送ることで和睦した(慶暦の和約)。その結果獲得した平和のもと、経済的発展が促進された。

しかし国防費の増、大商人・大地主の囲い込みによる税収減などに対する改革が求められ、六代皇帝神宗王安石を登用して国政改革にあたらせた。この動きは王安石の新法などと呼ばれ、主に零細農民の保護と大商人・大地主の抑制を目的とした物であったが、新法は地主・商人勢力とそれらの出身である官僚(旧法派)の大反対を受ける。この争いは日に日に激しさを増し、次第に宋の国体は傾いていった。

そのころ満州から興ってきた女真族1115年に自らの国であるを建てていたが、宋政府は金に対し、共同で遼を攻めることを約束し(海上の盟)、1121年に遼を滅ぼした。しかし、その後金に対抗するために遼の残党と手を結ぼうとしたため金の怒りを買い、1127年に開封を落とされ皇帝・欽宗太上皇(上皇)・徽宗を北方へ連れ去られた(靖康の変)。欽宗の弟である趙構は南遷して杭州で皇帝を宣言した。これ以降は南宋と呼ばれる。

南宋

趙構は1127年即位し高宗となり、宋を再興した。はじめ岳飛らの活躍によって金に強固に抵抗するが、秦檜が宰相に就任すると主戦論を抑えて金と和平を結び、岳飛は殺された。秦檜の死後に金の四代皇帝海陵王が侵攻を始めたが、金の皇族の完顔雍(烏禄)が海陵王に対して反乱を起こし、海陵王は殺され、完顔雍は金の世宗となり、宋と和平を結んだ。同年、高宗は退位して上皇となり、養子の趙慎が即位して孝宗となった。

孝宗時代には宋金関係は安定し、平和が訪れた。孝宗は無駄な官吏の削減・当時乱発気味であった会子(紙幣)の引き締め・農村の体力回復・江南経済の活性化など様々な改革に取り組み、南宋は繁栄を謳歌した。

しかし、孝宗が1189年に退位して上皇となり、趙惇が即位して光宗となると韓侂冑などにより光宗は退位させられ、反対派の大量弾圧が起こった(慶元の党禁)。この時期、朱熹の朱子学(当時は道学と呼ばれる)も偽学として弾圧されている(慶元偽学の禁)。

韓侂冑は金がタタールなどの侵入に悩まされている様子を見、北伐の軍を起こすが失敗。1207年、金の要望で韓侂冑は殺され、その首を塩漬けにして金に送ることで和睦した。1233年モンゴル帝国は金の首都開封を陥落させ、南に逃げた金の最後の皇帝哀宗を宋軍と協力して追い詰めて、1234年に金は滅びた。

その後、宋軍は北上して洛陽開封を回復したが、これはモンゴルとの和約違反であり、モンゴル軍と戦闘状態に入る。暫くは一進一退を繰り返すが、クビライ襄陽を陥落させると南宋には最早抵抗する力が無くなり、1276年、モンゴルのバヤン臨安を占領されて事実上宋は滅亡した。南走して徹底抗戦を続けた一部の皇族・官僚・軍人らも1279年広州湾の厓山で元軍に撃滅され、これにより宋は完全に滅びた(厓山の戦い)。

社会・文化

社会

が各地に軍閥とも言える節度使の割拠を許し、続く五代十国時代の騒乱に至ったことに鑑み、宋は、科挙を本格的に運用し、名実ともに文臣官僚制が完成の域に達した。皇帝が士大夫出身の官僚を手足として使い国政に当たる体制は、「皇帝専制」、「君主独裁」とも称される。文帝により始められた科挙制度だが、科挙が真の意味で効力を発揮しだしたのは宋代だと言われる。宋代は歴代でも非常に科挙の盛んな時代であり、ほぼ3年に1回行われ、一回に付き3~400人が合格した。

宋の兵制は傭兵制(募兵制)である。太祖は禁軍の制度を改変して全軍の司令官職を廃止して皇帝直属とし、その下部の存在としてしか将軍を使わない事にした。常備軍は北宋中期に140万を数えたが、数だけ多く、実戦となると不安な兵士が多かったようである。史料からも中国統一後の宋軍の戦歴は、勝ち戦が圧倒的に少ない。更に歩兵が主体だったため、騎兵を主力とする西夏相手には苦戦を強いられ、多くの損害をこうむった。また、140万という多くの兵士を雇ったため軍事費は国家予算を圧迫し続けた。その上、文人重視主義の為武人は非常に蔑視され(中国のには「良い鉄はにしない、良い人間は兵隊にならない」というものがある)、結果兵士のなり手を探すのに苦労することも多々あり、兵士には罪人出身者や素行の良くない者が目立つようになり、士気や規律も低下していたと考えられる。なお、逃亡を防ぐため兵士達には全て刺青が施されており、一般民とは区別されていた。

唐代までは都市は夜になると閉門し、都市内の各地区も出入りが禁じられていたが、宋代にはこれらが取り払われ、開封では夜になっても路上に商店が立ち並び、都市から人々の姿が絶えることはまずなかった。

文化

初期には、「四大書」と総称される大部な書物の編纂が、相次いで行われた。宋における文学は唐中期の古文運動を引き継いでいる。この流れは欧陽脩により宋文学の主流となり、唐宋八大家と呼ばれる名文家が活躍した。八大家以外では黄庭堅・范仲淹・司馬光らの名前が挙がる。漢詩では唐代までの叙情詩に対して、非常に日常的で平易な叙事詩が出てくるようになる。また唐末期から徐々に増え始めた詞の分野もこの時期に隆盛を迎える。歴史の分野では『新唐書』『新五代史』、そして司馬光による編年体の『資治通鑑』がある。

科挙の隆盛により、知識人はほぼ完全に儒教を基礎とする人物となった事で、宋は歴代でも儒学の強い時代である。その儒学の中で道学と呼ばれる新しい学問が始まり、後に朱子によって集大成されて朱子学となる。仏教では大掛かりな訳経事業が行われたが、この新訳経典の多くは、当時、最末期であったインドの仏教状況の影響を受け、ほとんどが密教に属する経典であった。唐代までの講学中心の仏教は、宋代ではあまり振るわず、実践的な教義を持っていた禅宗浄土教が盛んとなった。禅宗はこの時代に中国から日本に伝えられるなど、日本に強い影響を与えた。道教は皇室と結びついて大きく隆盛した。また民間道教である真大道教、太一教、全真教がこの時期に興っている。

宋代は水墨画山水画の分野の勃興期であり、多くの名品が描かれている。宋代の画壇には二種類の流れがあり、朝廷に作られた翰林図画院(略して画院)と呼ばれる国立美術アカデミーの中で生まれた院体画と民間の士大夫による文人画の二つである。またの分野では、宋の四大家と言われる蘇軾米芾黄庭堅蔡襄の四人が挙がり、徽宗とその宰相である蔡京も挙げられる。徽宗皇帝は痩金体と呼ばれる手法を編み出した。陶磁器の分野では、現在でも陶磁器の街として有名な景徳鎮青白磁の生産を契機に一大生産地となった時期である。また、北宋の時代は、宮廷御用達の汝窯産の青磁、オリーブ緑色の釉薬で知られる耀州窯産の青磁や白磁最高傑作を生み出した河北省定窯、白地黒掻き落としの技法で知られる磁州窯の製品に優品が多くつくられた。このなかでは、日宋貿易により日本にも持ち込まれたものがあり、大きな影響を与えている。南宋の時代は、浙江省龍泉窯に80m前後に達する大規模な龍窯青磁碗が大量生産される一方で、官窯として郊壇下官窯のような20m強の小規模な龍窯が築かれて、青磁の優品が焼かれ、福建省建窯では、「建盞」(けんさん)の別名で知られる「天目茶碗」に最高の名品がつくられた。

経済

この時期になると江南の経済力は圧倒的になり、華北は消費社会として江南からの食料によって支えられる事になる。

宋は農業・商業の上で著しい変革が見られた時期であり、宋の経済力は非常に高いものがあった。遼との澶淵の盟で払う事になった絹20万匹、10万両と言う額はいかにも巨額なものであるが(銀で一括すれば約11トン)、真宗が封禅の儀式を行う際に使った費用は澶淵の盟の額の60倍と言う。

中国の人口は前漢末以降は戦争による減少と増加を繰り返し、人口6000万を越えた事は一度も無い。しかし北宋に至り6000万を突破して1080年の試算では9000万となっている。これ以降は1億を限界点として、清代まで減少と増加を再び繰り返す。この人口を支えたのが新しい農業である。唐代までに大きく発展した鋤などの農機具を背景として、南のベトナムからもたらされた占城稲という安定性のある早稲が導入され、また米と麦の二毛作が拡大した。中国全土の経済の重点は、この時期までに確実に華北から江南へと移動した。さらに地域によっては果樹養蚕などの生産を行い、農業の分業化が進んだ。

食料の増産に対して、それを運ぶための水運も非常に発達した。非常に細密な運河網が築かれており、運河は全国の4分の3の地域を網羅していた。首都・開封はこの運河を使用することを前提にした都市であり、内部を運河が貫通している。またそれまで軽視されていた海運技術が大幅に向上し、頑丈なジャンク船が開発され、日本朝鮮から東南アジアインドまでを舞台とした貿易網が発展していく。

物資の増産と交通網の整備は商業を活発化させる。行と呼ばれる商人ギルドが誕生し、年の商業形式が整えられていく。これに伴い、約束手形が通用するようになり、四川陝西では世界初の紙幣である交子が発行され流通した。

科学技術

宋代には経済の発達と共に各種の実用技術の発達も見られており、方位磁石の発明がなされている。また火薬印刷の技術も本格的に運用されるようになり、社会の様々な面で利用されるようになった。製紙・印刷技術の向上と市民経済の勃興により、それまで一部の官僚・貴族に独占されていた文学・思想などが市民の間にも行われるようになった。

関連項目

外部リンク

[ 宋 (王朝) ]の改訂履歴 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』
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